通りすがりの女の神話

 そそっかしい長男は、いつも、何かを忘れて帰る。今回こそは、と万全を期したはずなのに、原稿のプリントが20枚ばかり・・・途中まで、赤いボールペンで修正が入っている。確かめたところ、忘れたのではなく、置いていったのだということだったので、そのまま、郵送せずに置いていたのだが、今、ふと、読み始めたらおもしろくて、一気に読んでしまった。ヴィリエ・ド・リラダン全集の中に収録されている未訳作品の書評の翻訳らしいが、詳しい注釈を読んでも母親には、よく、わからない。でも、その内容は、フェリシアン・ド・ラ・ヴィエルジュ伯爵という世間知らずな若い田舎貴族の運命の恋物語で、2人の恋人は、パリの劇場で、マリブランという名高いロマン派歌手の歌声を聞きながら、客席で若い美しい女性と目が合い恋に落ちる。ーこの刹那、青年と彼女の目とは交差し、それは、輝きつつ消え行く一瞬時であった。どうして、彼は取り返しのつかない程、彼女に夢中にならずにいられようか。もう、既に手遅れだったのだ。「彼は初恋にして忘れえぬ恋をした」何と幸運なフェリシアンであろうか!世紀の大歌手が、最も、美しい幻想的なオペラの大アリアを歌うのを聞ながら、時を同じくして運命の女性に出会う。そのあと、書かれている内容は、まさに、『魂の伴侶』というソウルメイトの物語を読んでいるようだった。・・・つまり、この2人の恋人の出逢いは、運命ずけられていたのである。彼らは、かつて、知り合っていたのか?そうではない。地上においては・・・しかし、いつから「過去」が始まるのかを言いえる人ならば、この2人の人間が、既にいかなる時から相思の相手になったのかを決定できるだろう。この一瞥で、この時、そして永遠に、彼らの生は揺り籠から、始まったのではないと確信したのだから・・訳文も多少、こなれていない箇所もあるけれど、全体的に格調高いトーンで仕上がっているクラシックな題材でありながらも、随所にフランス文学のエッセンスの香る書評文、充分に楽しめた。一部、日本語でもわからない言い回しがあるのは、訳がヘタなんだろうねと夫が笑う。しかし、幸せを感じたひとときだった。早く、雑誌に掲載された完成作を読みたい。