三島ファンには、たまらない!


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 本を開いた。その時だった。畳の上に、かさりと音をたてて何かが舞い落ちた。
 あ、と私は声を上げた。それが何なのか、何故、そこにあるのか、そしてどういう経緯を辿って今、私の手元から舞い落ちたのか、わたしは一瞬にして理解した。
 「何か?」袴田が訊ねた。「どうかしましたか」
  いえ、と私は言った。「別に何も」
 息苦しくなった。庭の蝉の声が、耳の中で乱舞する虫の羽ばたきのように聞こえた。
私は畳に落ちたものをつまみ上げた。
 それは一枚の美しく色ずいた楓の葉だった。19年前の1978年11月。袴田邸新築記念パーティーが行われた時、招かれて行った私は、そこで数年ぶりに秋葉正巳と再会した。邸内にある書庫を見学に行って、正巳と2人、三島由紀夫の作品が並ぶ書棚の前に立った時、私はその楓の葉を手にしていたのだ。
 それは、造園業者として袴田に雇われていた正巳が、袴田邸の庭に植えた楓だった。
楓はパーティー当日、燃えあがらんばかりに美しく朱色に染まり、はらはらと石のベンチの上に舞っていた。
 最初に阿左緒が拾い上げ、次いで私に渡されて、私が指先で弄んでいた楓の落ち葉は、あの日、さらに私から正巳の手に渡ったのである。そして、正巳が袴田邸の書庫で手にした、『天人五衰』の本のページの間に、知らずはさまれていたのである。ふいに書庫の戸口に現れた水野に驚いて正巳が本を閉じたその瞬間、楓の葉は、19年後の今日まで、誰の目にも止まらぬまま、火災現場から選び出され、ひっそりと本の中で、その地のような鮮やかさを保ったまま、眠り続けていたのである。
 「最後のページを開いてみてください」袴田が言った。「本当に最後のページです。いいですか。そこに確か、郭公が鳴いた、とか何とかという、寺の若い御附弟のセリフがあるでしょう」
 「『今日は朝から郭公が鳴いてをりました』というところですか」
 「そう。そのセリフの後からでいい、最後まで読んでくれませんか」
  私は楓をそっと畳の上に置き、額から流れる汗を拭いた。本を両手で持った。胸が熱くなった。嗚咽がこみあげてきそうになるのをこらえつつ、私は読み始めた。

 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏といふのに紅葉してゐる楓もあつて、青葉のなかに炎を点じてゐる。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熟して、腰かければ肌を灼きさうな青緑の陶のたふが、芝生の中程に据ゑられている。
そして裏山の頂の青空には、夏雲がまばゆい肩を芝生の中程に据ゑられてゐる。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしてゐる。
 これと云つて奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るやうな蝉の声がここを領してゐる。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂まくを極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。・・・・

                           「豊穣の海」完。
                     昭和45年11月25日

 

               以上  『欲望』小池真理子より引用

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 偶々、書店で手にした新潮文庫、久々に三島を理解する女流作家に出逢ったという気がして嬉しかった。一気に読み上げ、物語終盤のこの箇所まできて読みながら身体中の細胞がゾクゾクと震えるような気がした。「楓」に託された物語の登場人物の心象風景に感応してしまったのかもしれない。そこには、肉欲を超えた究極の恋愛が描かれているのを感じた。それにしても、わたしにとって、三島に関する因縁は青春時代の「愛の橋渡し」だったような気がする。そして、その感性の因縁は、仏蘭西文学を愛好してやまない息子へと、受け継がれたのかもしれない。