突然の涙・・・

 夕方の5時頃だったろうか・・・セミナーで購入した「LIBERA free」というCDの曲をパソコンのソニックステージで流しながら、カルキセンタージャパンからでている「Oneness on the earth 地上の楽園」vol.1 悟りへの羅針盤という小冊子の33ページを開いていた。深い霧に煙る野呂山の頂上から下界に降りるときに車を運転してくださった、Kさんと、そのあいだ、お話していたときに、「33ページに書いてあるよ」と言われた言葉が、耳に残っていて、それが、どういう会話のやりとりでなされた言葉だったのか、忘れてしまっていたにもかかわらず、ふと、開いてみたら、そこに書いてある文章を読みながら、とめどもなく、涙があふれでてきたのだった。しばらく、泣いていたら、そのうち、スーッと元にもどって、こどもたちが、教室に入ってくるころには、すっかり、平静だったけれど、涙のあとが残っていて聞かれたら、コンタクトレンズの調子がよくなくて、涙がでたことにしようかな?なんて、言い訳さえ浮かぶくらいに、マインドの世界に戻っていた。全部を抜粋することはできないけれど、一部、引用してみます。

 完全さも不完全さも、ただあなたの考えの中にあるだけです。考えがあなたの人生を支配している限り、相反するものが存在し続けます。完全さ・不完全さ、善・悪・正・邪などです。
 なぜなら「考え」そのものが本質として分離的なのです。考えの構造自体が比較するというものです。比較がなければ考えというものは決して存在できません。
  
 マインドは考えを手放すことはできません。
 考えは単に記憶であり、もしあなたが記憶の本質を学べば、記憶が単なる想いでや連想ではなく、比較をも伴ったものだとわかるでしょう。いつも相反するものを前提としているのです。
 
 考えの中には、常に相反するものが存在する、ということが問題なのです。考えを超越したときに始めて、人はすべてのものをありのままに体験できるようになります。

 これがこのムクティー・ヤグニャ(悟りのコース)の意図するものです。その深みに入っていくにつれ、多くの人がその意識状態を得ていくことになるでしょう。
 そうなれば必要なときに考えを使うだけです。それ以外に考えはありません。

 考えが必要でないとき、そこに分離はありませんし、そうなれば葛藤も生じません。
 ただ直接認識があるのみです。
 この状態では、どんなものも、そのままで素晴らしいのです。
 

 セミナーのときに、「今、幸せな人?」とケビンが質問したとき、何人かが手をあげて
その中の一人に自分もいた。すると、ケビンは、「苦しみのどん底にいるときが、悟りの入り口なのです。幸せな人は悟れません」と、言われた。「じゃぁ、ケビンはどん底だったの?」「Yさんは、ボクの過去を知っていますか?」といって、ヒーラーになる前のことを話してくださった。学生時代、全共闘の委員長をされていたということは、博多でのセミナーでお聞きしたけれど、ケビンのヒーラー前の話、ところどころをかいつまんで伺うばかりなので、全貌はまだわからないけれど、純粋に苦しまれたんだろうということは、想像に難くない。それは、ある種、求道者の苦しみだったかもわからない。でなければ、聖フランシスコの生涯を描いたとされる「ブラザーサン・シスタームーン」にあれほど、心酔されたりはしないだろう。
 わたしの中の悟りの入り口は、ディクシャを受ける以前、何年遡ったら説明ができるというのだろう。きっと、これは、前世からの持ち越しに違いない。だから、たとえ、どんなに幸せな家庭があって暖かい家族の愛に囲まれているからといって、悟りの資格がないなんて言ってほしくはない。
 物心ついた時分からの、言葉にも文字にもならない段階から、漠然として抱いていた、この幻の次元に対しての不安や、不確かさ、大人たちが、現実をこうだと思っていることによって成立していると思われる集合意識の罠を早くも見破っていたのだから・・・それを言葉や文字で理解したのは、難しい哲学書や宗教書を読み漁るようになってからのことである。それまでは、ひたすら「何故?」を問い続ける子だったから、母も閉口してしまっていた。しかし、本が読めるようになったからといって、本質的な疑問の答えは見つからなかった。そして、求道にも近い探求の志を秘めたまま、学生から、世間を知らぬままに、家庭に入り子育てに追われ、わが子の可愛さに一時期、本質的な問いを忘れたかに思えた時期もあったにはせよ、また、この次元に馴染めない本来の自分がムクムクと目覚めてくるという、マインドの呪縛の中にいた。その苦しみを誰がわかるというのだろうか?その上、日本固有の神道の家系に生まれ育ち、神道は日本人のみならず、国際的な世の中になってきている全世界の人たちにどうやって通用するのだろうかという、日常からはまるでかけ離れたレヴェルでの問いがあった。
 卒業論文は、アメリカの超絶主義思想家のラルフ・ウォルドー・エマソンであった。光明思想家としてのエマソンには、本当に救われた。夫と出逢ったときに、彫りの深い顔立ちの彼の表情や瞳の奥の静かな輝きが、どことなく、エマソンにも似てるような感じがしたけれど、彼は、むしろ、メルヴィルホーソンなどの思想に惹かれるといった。「ボクは、悲しみや暗さの方にむしろ惹かれます。それを、直視できることが本当の強さだと思います」彼の卒業論文は、『いのちの初夜』というただ1冊の本を残した、北條民雄だった。卒業論文を書くために、らい病院を訪ねて患者さんにも接触した経験があると聞いて、わからない世界だと思った。最近は、つきつめて、そんな話をすることもあまりなくなったけれど、長い道のりだったのか、短い道だったのかわからないけれど、平穏で幸せな毎日。
 「愛してる?」と聞いたら「愛してる」と答えてくれて、「じゃぁ、どこが好きなの?」「ぜ〜んぶ」「それじゃぁ、わからない。どうして、愛しているの?理由はないの?」「理由はないの、愛に理由はいらないの」何度、そんな会話を繰り返したことだろう。結婚するときもそうだった。なんだか、物足りない感じがしていたけれど、「悟りとは、理由のない愛です」とケビンが言ったとき、初めて、気がついた。なんて、お馬鹿さんだったんだろうって!

 わたしにとっての、悟りへの道は、マインドの呪縛から外れることだ。